マイケル・ジャクソン10周忌を悼む

少し時間は立ったが、キング・オブ・ポップマイケル・ジャクソンが急逝してから6月25日で10年となった。

1982年生まれの私にとって、マイケルは子供のころから、親しみのある存在で、その死を知った朝は唖然としたものだった。

マイケルと言えば、作詞作曲が出来ることははもちろんの事、ムーンウォーク、ゼロ・グラヴィティと言った、ユニークなマリオネットの様なダンスで、他者追随を許さぬほどセンセーショナルな存在だった。
過激な歌やパフォーマンスを行う一方で、人種差別の無い世界を信じ、世界平和を求めて積極的かつ人道的に活動していた。

そんなマイケルだったが、子供のころから肌の色で差別され続ける中で、肌の色を変え、整形を繰り返していた。
そんな中、1993年児童への性的虐待疑惑が浮上。私は子供心にこれが嘘であり、マイケルへの名誉棄損とゆすり・たかりであったことはわかっていた。

マイケルが、整形を繰り返し、また手術用の強い麻酔薬でもなお眠れない程の不眠症に陥ったのは、米国のメディアや社会、一般大衆からの、言われない誹謗中傷、好機の目、プライバシーへの侵害に対しての結果であり、私はマイケルは、寄ってたかって殺されたものと信じている。

またマイケルを追い詰めたのは、父の存在も多きかったのではないだろうか。
マイケルは幼少時代から父親から愛情を受けず、精神的、肉体的虐待を受けており、その事が極端に自己肯定感の少ない、またある種幼稚性のある大人へと成長してしまったのではないかと考えてやまない。
マイケルの自己肯定感が低いと思うエピソードとして、レーガン大統領と謁見した際、パフォーマンスを称賛され、それに耐えられず嘔吐してしまったという事があげられる。
またマイケル自身「父と良好な関係を気付けなかったのは、私の人生の中で最も残念な事でした」と語っているように、様々なプレッシャーから耐えきれず、不安神経症不眠症へと進んでいったのには、幼少期の経験も大きいだろう。

マイケルは、徐々に音楽活動から一線を退き、世間を避けるようになっていた。そんな中長年復帰を待っていた私は、2001年NYのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたマイケル・ジャクソン 30周年記念ソロ・イヤーズは忘れることが出来ない。
様々なスーパースターがマイケルの曲を歌い上げた後、マイケルは舞台にてジャクソン5時代の名曲を披露したが、その後歓声に感極まって目を抑えてしゃがみ込んだのである。キング・オブ・ポップ帰還の瞬間だった。

マイケルの死により実現することの出来ななかったツアー「This is it」も素晴らしいものになっただろうと、残念でならない。

マイケルが虐待疑惑の後に出したアルバム「History」は第一曲目がScream(叫び)に始まり、最終局がチャップリンの名曲、Smile(笑顔)に終わる。
Smileを聞く度に、人生にどんなことがあろうとも、笑顔で信じ続ければ道は開けていく、そんな気がしてならない。
マイケルが激動の人生から解放され、天国で人種差別の撤廃や、世界の分断の停止、平和を願ってくれることを信じてやまない。